明治42年(1909)11月、野間清治は、東京は本郷駒込坂下町(通称団子坂)に敷地50坪、建坪26坪、家賃12円、電話1本というささやかな社屋に「大日本雄弁会」の看板をかかげました。

 当時、東京帝国大学法科大学首席書記として奉職中の野間は、もともと弁論好きで、同大学に創立された「緑会弁論部」を応援、ここに集まった優秀な学生の名演説をこのまま聞き流すべきではないと考え、講演の全てを速記させ、この演説集をまとめたものを「雄弁」として刊行しました。

創刊号は14,000部を発行し大成功を収め、その後、国民新聞の望月茂と伊藤源宗の二人の企画から、講談を読物にした「講談倶楽部」を創刊、社名を「大日本雄弁会講談社」に改称しました。

 「講談倶楽部」は講談、落語、浪速節、美談、逸話等を掲載し、創刊号は定価18銭で大胆にも10,000部を発行しましたが、結局売れたのは1,800部だったといいます。  野間は“面白くて為になる” 雑誌づくりを目指し、大正時代に入って「雄弁」「講談倶楽部」が軌道に乗ると、「少年倶楽部」「キング」「幼年倶楽部」を次々に創刊し、いずれもヒットさせて、"講談社の9大雑誌"と喧伝される一大雑誌王国を築きあげました。

 全盛期の昭和6年には、講談社は全出版界の8割に近い発行部数を誇っていました。しかし、当時の出版社はただ利潤を追及する企業体でなく、文化的理想を追及する人達の集団と考えられていたため、その姿勢の乏しかった講談社は大衆的な「二級」の出版社と見られていました。  ところが、今日の「一級」の出版社として誰もに認められている講談社の“認知”は戦後創刊された純文芸雑誌「群像」によってもたらされたものです。 「群像」によって世に出た作家、評論家の、他の文学史上に残る作品、論争、新しい課題の掲載の場として「群像」は日本文学に不可欠な舞台でした。

 昭和9年8月12日、本社は音羽の新社屋へ移転。ギリシャ神殿風の荘重な偉容をたたえた新社屋は、「どうぞして荘重なるものに願いたい。どうぞして華美をさけ、質実剛健なるものに願いたい。どうぞしてわれらの精神を、われらの魂を、われらの社風を、われらの社格を、その間に織りこんでいただきたい。どうぞして明るい建築にしていただきたい。どうぞして衛生にもよく、換気に採光に悉く目的に適うようお願いしたい。万事万端品事のしよいように、能率の増進ができますように、そして厭味のない、何となく懐かしい、しかも侮り難い威あって猛かざるような、君子の大人格を備えたような、そういう建物にお願い申しあげたい」と、設計者に沢山の注文をつけたそうです。社屋の敷地は、小石川区音羽3丁目の明治維新の元勲、元司法大臣山田顕義の旧邸宅で、その後越後の素封家佐藤伊佐衛門の屋敷になっていたものの、奥の高台4,000坪と前方音羽通りに面した4千数百坪という広大なものを譲り受けたそうです。〈ま〉



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